卓話「私の生い立ち」
担当:山口巖雄君
この頃、こうした講話をすることが苦手です。何をどうしてどのように話をするか、まとまらなく悩んでしまいます。
最初、卓話担当者のお話を聞いた時、講師をお願いしようと思いました。
題目は「圏央道開通に伴い、県央のそして厚木の将来像・展望」についてを企画しておりました。
圏央道が開通しますと、全国(東名、新東名による 西方面、圏央道による東北、北陸、関東一円)の人物・ 情報がこの厚木に集約されると言っても過言ではありません。
「ハイウェイの街」 誕生であります。全国どこを 探してもフィガー状に五つものインターがあるのは厚木であり、市内どこにいても10分以内で高速に乗れる街はありません。
あえて上げるならば、新潟県の長岡市、これは田中 角栄先生地元であり、小さな町に3ヶ所インターを 設置し、高速に乗れるシステムです。 厚木の場合は、インター予定地周辺は未開の地で あり、将来の開発・展望が大変大きいです。故にこの度、国より「さがみロボット産業特区」の指定を受けた訳です。
人をこき下ろすこの指定をしっかりとした長期政 策にのっとり、企業誘致条例インベスト神奈川の活用、市独自の企業誘致政策が出来、県央で一歩先んじた政策展開が必要であります。
かつて、日産自動車先端技術開発研究所は、この政策に呼応し進出をしてくれました。
このような県央厚木の未来への街づくりだって講演をいただく予定でしたが、会長より“自分の生い立ち”のテーマに位置づけられましたので、急きょテーマに添ってお話をさせていただきます。皆さんにお 話をする程の生い立ちではありませんが・・・
私は、厚木産まれの厚木育ちです。9人兄弟の8番 目です。幼い頃から”イタズラっ子“で地域ではそれ なりに通っていたそうです。それが後に大きな役に 立つとは・・・
私の人生は、「20年サイクル」です。自分でもビッ クリしました。
◎0歳~ 22歳 学生時代特に陸上競技、長距離で 箱根駅伝を3度走りました。一度は”病結核”と 診断され参加出来ませんでした。
◎23歳~ 42歳 商業に専念しました。 私が4年の時大ブレーキした鶴見で見習の修行 (4年間)46年に厚木で開店しました。
◎43歳~ 63歳 政治に43歳~ 51歳 県議会議員。 51歳~ 62歳 市長をつとめ
◎63歳~現在の福祉事業に従事しております。 この20年サイクルの中でのエピソードを交え”そ の一言”を取り入れてお話をさせていただきます。
“子育て教訓”
- にくくてただ道にあらず笹の雪 (父)
- うしろ指さされない人になって下さい(母)
- あいさつの出来る子供になって下さい(母)
大学1年生の箱根駅伝の時でした。私は右足の親 指で着くのがやっとの状態でした。信頼する先輩に、 この状態では走れない、監督に相談した方が良いので はと話をしました。即座に「山口、監督に相談すれば選手交替だよ。今回出場しなければ二度と出場できないぞ!!骨が折れている訳ではないだろう!走り出せ ばそんなの直ぐ忘れるよ」と言われ、当日、八区平塚~ 戸塚間を走り、見事に区間3位。3人抜き。9位から6位。 入賞位置に入りました。先輩の一言。厳しかったかも 知れないが、今では感謝しております。
私の人生が大きく変わった時であります。
23歳。修業に鶴見に行きました。
私の叔父に独立して何か事を起こしたいと相談しました。叔父は、農家の三男、独立する時は、「どういう社会情勢・経済情勢か解らない、商売の基礎を勉 強しろ“他人の飯”を食べて来い」と言われた事が心 に残っております。
社長からは、山口信用が商売は第一。特に銀行は約束を守れ。それが成功の鍵。預金は一度おろしても、 再度預金すれば額は変わらない。しかし信用は、一度 おろしたら元に戻すことは出来ない。
昭和44年 独立開業 26歳でした。
商売は、三年間年中無休。夜は麻雀店を開き、1時 ~ 2時閉店。店は9時に開店。
23歳でJCに入会。38歳で理事長を務め、39歳で RCに入会しました。
当時小林会員が、どんなに忙しくても、一週間に一 度、一時間の時間が調整できないような社長では経 営能力がないからだ。挑戦しなさいと・・・入会
42歳。無名の新人。厳しい選挙戦でした。改めて妻 のありがたさを知りました。まだ味わってない方は、 政治家を志されると妻のありがたさが解ります。互 いに夜は泣きながら励まし合いました。選挙戦の最 終日。土下座して二人で最後のお願いをした事が忘 れなれない。
52歳。市長時代のこと。健康回顧。
63歳。市長選敗退のこと。
現在。保育園のこと。 をお話します。