私の人生を変えてくれた3人の恩師がいます。
私は今でも生まれ育った横浜市旭区(相鉄線鶴ケ峰駅)に住んでいますが、生まれた時から近所にー学年上の先輩がおり幼少時をすごしました。家族ぐるみの付き合いをしており毎日一緒に遊んでいた記憶がございます。その先輩のお父さんが野球大好き人間で小学校に上がる前から先輩と私にユニフォームを買ってくれて野球を教えてくれました。私も徐々に野球が好きになり取り込まれていきました。小学校の中学年でその先輩と野球チームに入り先輩はあまり上達しませんでしたが私はどんどん力を付けレギュラーになりました。もう、亡くなってしまいましたが野球を教えてくれたおじさんに感謝しています。
中学生になり地元の中学に進学したわけですが、少年野球もやっていたので先輩・同期も知り合いが多く不安はありませんでした。しかし、地元の中学校は弱くもなく強くもないチームで区でベスト8程のチームだった気がいたします。4月に入学し野球部に入部したわけですが、監督も冴えなくこの程度と言った感じでした。夏の大会に入る一ヶ月前に突然監督が替わることになりました。一年生だったので理由はわかりませんが突然の交代だったような気がします。
次の監督は特殊学級の担任先生で「中村先生」だと聞きました。特殊学級の先生だったのでよくわからず、また、一年生の一学期だけだったので先生のことはわかりませんでした。
練習にくるや、いきなりバッティングピッチャーをするとのことで見ていました。一球目を投げ、全員が唖然とした記憶がございます。球が速く中学生の私には初めて見た球でした。もちろん先輩レギュラー陣も打つことができず、当てるのがやっとのことでした。こんな先生(監督)がいるなど知らずビックリした記憶がございます。
後で聞いた話ですが、中村先生は私の母校横浜高校の野球部を卒業し(今の渡辺監督の2年先輩)、中学の野球監督としては有名で、私の中学に来る前は鶴見の潮田中学で関東大会に優勝(当時は関東大会しかなかった)。投手は横浜高校で全国優勝をした永川さんで(私の7年先輩)、その後ヤクルトに入団いたしました。その後も横浜高校へは良い選手を送り込んでいたそうです。私の中学に赴任したのは私が入学する2年前で体調を崩し野球は教えてなかったそうです。突然の監督交代は前監督からの依頼で体調も良くなり替わったそうです。
中村監督となり練習内容が変わり選手も真剣になり、また怖いこともありNOはなくハイとしか言えない雰囲気でした。3年生の先輩は夏の大会3戦位で負けましたが、翌年は(私が2年生)横浜市でそこそこの成績だったような気がいたします。私は2年生からレギュラーでしたが、1年生の時から3年間中村先生に教わり、野球とはから教わり、フォーメーション・チームプレーなど色々教わることができ、私の野球の基礎を作ってくれたことに感謝しています。3年生では中村野球が浸透し、横浜市でも好成績をおさめることができました。
中村先生の推薦もあり私は横浜高校野球部に入部いたしました。当時野球部は私の1年先輩で愛甲さんが1年生で甲子園に行き活躍をした翌年でした。入部者も100人を超え、私は運よく合宿場に入ることができレギュラーと一緒に練習をすることができました。私自身中学野球ではそこそこと思い入部したわけですが、体格の違い・スピード・パワーなどどれをとっても大きく違い圧倒される毎日でした。それも中学卒業は15歳で3年生は18歳です。この歳の3年の成長は違いすぎることを痛感いたしました。