第2610回 例会 卓話 「私の生いたち『我が野球人生』」
担当:恵津晴夫君
私の人生を変えてくれた3人の恩師がいます。
私は今でも生まれ育った横浜市旭区(相鉄線鶴ケ峰駅)に住んでいますが、生まれた時から近所にー学年上の先輩がおり幼少時をすごしました。家族ぐるみの付き合いをしており毎日一緒に遊んでいた記憶がございます。その先輩のお父さんが野球大好き人間で小学校に上がる前から先輩と私にユニフォームを買ってくれて野球を教えてくれました。私も徐々に野球が好きになり取り込まれていきました。小学校の中学年でその先輩と野球チームに入り先輩はあまり上達しませんでしたが私はどんどん力を付けレギュラーになりました。もう、亡くなってしまいましたが野球を教えてくれたおじさんに感謝しています。
中学生になり地元の中学に進学したわけですが、少年野球もやっていたので先輩・同期も知り合いが多く不安はありませんでした。しかし、地元の中学校は弱くもなく強くもないチームで区でベスト8程のチームだった気がいたします。4月に入学し野球部に入部したわけですが、監督も冴えなくこの程度と言った感じでした。夏の大会に入る一ヶ月前に突然監督が替わることになりました。一年生だったので理由はわかりませんが突然の交代だったような気がします。
次の監督は特殊学級の担任先生で「中村先生」だと聞きました。特殊学級の先生だったのでよくわからず、また、一年生の一学期だけだったので先生のことはわかりませんでした。
練習にくるや、いきなりバッティングピッチャーをするとのことで見ていました。一球目を投げ、全員が唖然とした記憶がございます。球が速く中学生の私には初めて見た球でした。もちろん先輩レギュラー陣も打つことができず、当てるのがやっとのことでした。こんな先生(監督)がいるなど知らずビックリした記憶がございます。
後で聞いた話ですが、中村先生は私の母校横浜高校の野球部を卒業し(今の渡辺監督の2年先輩)、中学の野球監督としては有名で、私の中学に来る前は鶴見の潮田中学で関東大会に優勝(当時は関東大会しかなかった)。投手は横浜高校で全国優勝をした永川さんで(私の7年先輩)、その後ヤクルトに入団いたしました。その後も横浜高校へは良い選手を送り込んでいたそうです。私の中学に赴任したのは私が入学する2年前で体調を崩し野球は教えてなかったそうです。突然の監督交代は前監督からの依頼で体調も良くなり替わったそうです。
中村監督となり練習内容が変わり選手も真剣になり、また怖いこともありNOはなくハイとしか言えない雰囲気でした。3年生の先輩は夏の大会3戦位で負けましたが、翌年は(私が2年生)横浜市でそこそこの成績だったような気がいたします。私は2年生からレギュラーでしたが、1年生の時から3年間中村先生に教わり、野球とはから教わり、フォーメーション・チームプレーなど色々教わることができ、私の野球の基礎を作ってくれたことに感謝しています。3年生では中村野球が浸透し、横浜市でも好成績をおさめることができました。
中村先生の推薦もあり私は横浜高校野球部に入部いたしました。当時野球部は私の1年先輩で愛甲さんが1年生で甲子園に行き活躍をした翌年でした。入部者も100人を超え、私は運よく合宿場に入ることができレギュラーと一緒に練習をすることができました。私自身中学野球ではそこそこと思い入部したわけですが、体格の違い・スピード・パワーなどどれをとっても大きく違い圧倒される毎日でした。それも中学卒業は15歳で3年生は18歳です。この歳の3年の成長は違いすぎることを痛感いたしました。
私が1年生の時は愛甲さんが2年生で、甲子園優勝との前評判があり誰もが優勝だと思っていました。それが県大会決勝でY校のジャンボ宮城に負けてし まいました。翌日から、3年生が抜け2・1年生の練習となったわけですが、優勝候補といわれ負けたわけですから、監督としては実力はあるものの思い上が り、チーム内の乱れなど、チームプレーで負けたとしきりに言っていたような気がします。
新チームとなり目標は「全国優勝」とチームの合言葉 になり、一人のエラーも全員の責任でライトポールまでウサギ飛びをさせられました。昭和55年夏の大会を迎え、私はレギュラーではないものの準レギュラー としてユニホームを着れるかと思っていましたが怪我でユニホームを着ることができませんでした。県大会で前年優勝のY校ジャンボ宮城が負け、順当に横浜高 校が優勝しました。甲子園に行き、1年前の合言葉「全国優勝」を前面に出し、当時の新聞でも「横浜は前年の悔しさを今年は必ず優勝するために甲子園に来 た」と大きく書かれた記憶がございます。優勝宣言をし優勝したチームだと後々言われ続けました。
1・2回戦を勝ち続け3回戦も苦しい中勝ち準決勝も勝ち、決勝へ進出しました。相手は早実1年生の荒木大ちゃんです。関東勢の決勝となり1年生の大ちゃんは人気絶頂となり女性ファンの多さにビックリしました。結局、横浜が6対4で勝ち、公約通り優勝することができました。
3年生が引退し、我々の代となり、まずは春の甲子園を目指すべく練習が再開されました。前年度甲子園優勝校として騒がれ練習試合でもかなりの応援が来ていました。秋の大会も神奈川県で優勝し関東大会に進みました。関東大会では負けてしまったものの、前年度の優勝校として春の甲子園出場もありえる位置にいました。
ところが、野球部内で暴力事件が発生し、マスコミ が嗅ぎ付け、新聞一面に「前年優勝校横浜高校で暴力事件発生」と大きく報じられ我々は出場停止となってしまいました。停止期間は翌年の7/8まで。県大会 の開会式が7/10でしたのでぎりぎり県大会には間に合いました。ただし対外試合禁止なので練習試合もできずぶっつけ本番となるわけです。処分が決まり、 我々の目標として「全員で真紅の優勝旗を返す」を目標にひたすら練習だけをしていました。
その年の強豪は東海大相模・法政二高・日大藤沢で した。我々は、シードもなく一回戦から県立高校などと試合をし勝ち進みました。私は2番ライトとして背番号は9番でした。一回戦が終わり合宿場で昼寝をし ていると、体がだるくみるみるうちに腫れ上がり病院に行ったところ、風疹と診断され自宅に戻され、毎日朝・晩と医者に行き注射を打ってもらい一週間で治し てもらいました。2回戦は病み上がりもあり、途中出場でふらふらしていました。3回戦は通常通り2番ライトで出場し、準々決勝は強豪日大藤沢、準決勝は法 政二高、決勝は東海大相模と当たり優勝をすることができました。目標の「全員で真紅の優勝旗を返す」は果たすことができました。
甲子園では一回戦で徳島商業に勝ち、二回戦が強豪金村率いる地元兵庫の報徳学園と当たりました。結果は金村に2本ホームランを打たれ、4-2で負けた記憶がございます。
こ うして野球人生を歩んできたわけですが、私にはところどころで良い指導者とめぐりあえたと思います。渡辺監督は常に「人生の勝利者になれ」と私どもに言っ ていました。当時は理解していませんでしたが、人生色々なことがあり乗り越えるものが沢山ある、どんな人生でも振り返って見て自分自身が満足できれば良い と、そのためのトレーニングをしっかりとやれと言われてきました。
どんなこともあきらめずに私自身これからも生きていこうと思います。ご静聴ありがとうございました。