第2629回例会 卓話「私の生い立ちと薬局業界の展望」
担当:和田勝美君
昨年7月に入会させていただきました、和田です。「私の生い立ちと薬局業界の展望」というテーマで、お話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
昭和35年、厚木で生まれて以来、市内では何度か引っ越しをしましたが、まだ厚木を離れたことがありません。厚木ロータリークラブに入会させていただくことになった時に母親に報告をしましたところ、「それはよかったね。ロータリーには飛鳥井先生がいらっしゃるだろ。先生にはちゃんと挨拶をしないといけないよ。あんたは生まれた時、飛鳥井先生の取り上げていただいたんだから。覚えてるだろ?」ということで、いや覚えてはいないんですけど、先生、その節には大変お世話になりました。またうちの菩提寺は、壽永会員が住職を務めていらっしゃる長徳寺さんですので、私の寿命が尽きた時には、壽永さんにお経をあげてもらえるという、厚木市と厚木ロータリークラブには、大変有り難いご縁をいただいております。
私の生家は中町一丁目、今のバスセンター、イオン、アミューのすぐ近くでした。 厚木小学校 ごく普通に、楽しく、活発に過ごしていました。 途中で校舎が移転をしました。高学年になりますと、まわりでぽつぽつと塾というものに行く子供が出始めまして、父も母も商売で朝から晩まで忙しく働いていましたので、とても次男坊の勉強の様子まで手が回らなかったようで、全くの放任、ほっぽりっぱなしという状態で、暗くなるまで遊んで疲れて、家に帰ったら何か食べて宿題も何もせずに寝てしまう子供でしたので、週に2日でも、机に座って本を開くということができたのは、中学2年まで続きましたので、のちのち、とても良かった事だと思います。 厚木中学校 陸上部 中距離走で力が伸び、厚木愛甲地区大会1500メートル優勝、 神奈川県大会3000メートル3位入賞 などが記憶にあります。ただ、コツコツ努力を積み重ねる、というタイプではなかったらしく、3年になり、夏休みまで部活動もあと数か月で終わりという頃に、だいぶ思春期をこじらせてしまいまして、もともとが少しひねた子供だったようで、親や教師に激しく反抗して、学校をだいぶサボってしまい、人に暴力振るったりいじめをするということはありませんでしたが、街で何度か補導されたりしてしまい、部活動は先生にも迷惑がかかると思い、辞めてしまいました。 厚木高校 厚木高校にはボクシング部があったんですね。これはいいと、すぐに入部いたしました。ボクシング、やってみたかったんですね。小さい頃は皆さんテレビや漫画も見たと思うんですが、私たちの時は少年マガジン。その頃はやったのが「巨人の星」と「あしたのジョー」大人気だったころですが、巨人の星ももちろん読みましたが、やはりあしたのジョーが好きだった。 当時もちろんプロレスが人気でよくテレビでやっていましたが、いつも放送時間終了間際にいいものが逆転勝利をおさめるみたいのがどうも、というかんでしたが、ボクシングの場合は至近距離で本気の殴り合いというのに男の子はちょっと興奮してしまったんですね。 私が中学3年の時に具志堅用高さんが出てきたんですね。ジュニアフライ級、当時一番軽い階級。小さいんですけれど、これが恐ろしくハードパンチ。アフロヘアで相手選手をぼこぼこに殴り倒してしまう。それにやられちゃったんですね。当時、神奈川県内の高校で、ボクシング部があったのは5校だけだったと記憶しています。横浜高校と武相高校が強くて、プロからスカウトされているなんていう選手がいたりして、体の大きい選手はもうおっさんみたいな顔をしてるんですね。大体どの階級でもやられてしまうんですが、和田君もなかなか頑張った。一応、県大会準優勝というのがあります。最後の判定もそれほど差はなかったと思うのですが、優勝には届かなかった。厚木の街中で「イシケンスポーツ」というスポーツ用品店を経営していた石川謙吉という方がいまして、この方は厚木高校に在学中にボクシング部を作ったという方で、その後大学・社会人でもボクシングを続け、社会人ではアマチュアの日本チャンピオンにもなったというちょっとした有名人なのですが、この方のお店に、学校の帰りに寄って教えてもらう。 のちには、大学生の時には、少林寺拳法というのをやりました。厚木の町にも道場、道院というのがありまして、そこへ通って、一応初段まではいきました。格闘技系、好きなんですね。ただあまりコツコツ長続きする方ではなく、また、実は痛みにめっぽう弱い、という致命的な欠点もありまして、長くは続かなかったようです。 大学は、慶應大学法学部に入学をいたしました。特に将来の夢とか学部へのこだわりはなかったのですが、兄が薬局の後継ぎとして薬学部に在籍し頑張っていましたので、親からは何か強制されるようなこともなく、あまり期待されることもなく、自分では将来、商社に入って海外へも仕事で行ってみたいと、漠然とではありますが考えていました。 商社を希望した場合、多くの人は経済学部を目指したと思うのですが、私にはそれでは特徴がない、あまりに横並びの発想におもえて、ちょっと違うことをしてみたかったんだと思います。 入学して、地元から通ったのですが、これがあまりにも学業に身の入らない、ダメ学生になってしまいまして、結果、2度留年して6年かかってなんとかギリギリ最低の成績で卒業できたのですが、その間に、兄が病気で亡くなりました。兄はまじめで両親の期待を背負って薬科大学を卒業し、国家試験に通り、2年間の外での勤めをして、さあ実家の家業を継ぐぞというまさにその時に、病気での急逝でしたので、両親の悲しみ、心労はそれはすごいものでした。特に母親はやつれて夜も眠れずの状態ですので、自分もなんとか自分なりに店を手伝いながら、なんとか卒業だけはしようということで通いました。そしてそのまま家業を継ぐ形で和田薬局に就職いたしました。私は薬剤師ではなかったので、薬局も今のように調剤主体という時代ではなかったので、自分は化粧品を主体で行こうと考えて、すでに化粧品の取り扱いありましたが、取引メーカーを増やし、売り場も拡大してしばらくやっておりました。そこへ薬局へ嫁に行って、一緒に商売をしてもいいという、奇特な女性薬剤師が居りましたので、よろしくお願いしますということで一緒になりました。その頃、今の医薬分業、薬を病院の中でもらわない、医師は診察と診断、薬を決めるが、患者さんが薬をもらうのは薬局で薬剤師の説明でという医薬分業が始まりだし、川崎のほうでいち早く取り組み、一般医薬品や化粧品の販売と組み合わせて成功しているという薬局がありましたので、頼み込んで使ってもらうことになり、朝9時からたしか4時まではそちらのお店で、荷物を出して値段をつけて並べて、レジを打ってお金をもらって、その合間にその商売のやり方を学びながら、4時になったら急いで自分の店に戻って夜まで仕事というのを1年近くやっていました。その後、自分の会社に戻り、調剤専門薬局の会社を立ち上げて3店舗を展開しています。そして和田薬局のほうも、少しずつ業態の転換がありまして、現在は調剤業務主体で営業をしています。
ジェネリック医薬品について ジェネッリク医薬品というのは比較的最近になって使われるようになった言葉なんですが、連日、新聞やテレビ、テレビコマーシャルなどにも流れますので、皆さんお聞きになっていると思います。こちらは、また機会がありましたら、お話しさせていただきます。