第2659回 例会 卓話「生い立ちの記(2)富士重工業時代」

担当:本多正彦君

 
 今年の4月7日、元湯玉川館での春の親睦例会にて、米寿の飛鳥井、黄金井、両先輩と一緒に、私の傘寿をクラブの皆様より「お祝い」して頂き人生の一区切りと感じました。サラリーマン時代28年8か月、脱サラ後28年2か月、サラリーマンの富士重工業時代を振り返り、これからの私の指針に成ればと、忘れかけた記憶の断片を書き残します。

 

 昭和33年4月1日、富士重工業㈱に入社した。当時本社はお堀端、丸の内二丁目の内外ビルで大卒約20数名で入社式、近くの東京会館で昼食会が開かれた。富士重工業は中島飛行機が財閥解体で工場単位に解体され、昭和28年7月、第二会社時代を経て,本社と5社で再建された。それ故、六連星でスバル(車の名称)です。入社後の二か月は同期が一緒に研修で本社、群馬県の太田、伊勢崎。宇都宮。大宮。そして三鷹の各工場の見学、実習を行い、同じ釜の仲間となり、現在も交流が続いている。6月1日辞令「三鷹製作所勤務を命ず、基本給一万二千八百円。取締役社長吉田孝雄」予め予定されたもの。新宿区下落合の自宅から通勤が出来た。当時は土曜日は半ドン、定時は4時頃と余裕があった。三鷹工場は50万坪の広大な研究所予定地で一部の建築で終戦と成り、4 5万坪をキリスト教大学に売却し、5万坪のパワーユニット生産工場で開発部門と、スクーターと3月に発表したばかりのスバル360のエンジン、トランスミッションを生産していた。
 配属先は生産技術課で、これらの工程計画、準備で、開発と生産の橋渡しで生産原価の中心部署であった。中島飛行機の軍需工場としての生産技術の膨大なノウハウを利用出来たのは大変に有意義であった。
 三鷹工場勤務を始めて間もなく、卒業論文の研究室の渡部寅次郎教授が7月22日に急逝された(68才)。先生は大正5年東大の工科を卒業され、同7年12月に28才で早大教授に迎えられた「ディーゼル機関」の権威であられた。この時、葬儀に参列するのに、就業規則や有給休暇などの会社の規則などを初めて教えられた。又私の実父、前田雀郎は翌昭和34年10月に癌(リンパ腺肉腫)で芝白金の北里研究所病院に、人生で初めて入院した。会社の終業と同時に連日、病院に駆け付けて、母と兄と三人で下落合の家に遅く帰った。年末には医師の勧める、開発まもない杭ガン剤「マイトマイシン」の使用を家族会議で決めたが、その効果は不明、入院から丁度三か月の35年1月27日に逝去(62才10か月)第九交響曲は当時より年末の風物詩であった事が思い出される。母梅子は下落合の家から離れる事を拒否し続けた。昭和55年8月29日に肺炎で初めて入院した病院で亡くなった。父より20年後で74才7か月であった。入院して長年の疲れが一度に出たのかと、今も後悔して居る。
 昭和39年5月3日、鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリには、職場の先輩、同輩4人で車で東海道を遠征した。T-1クラスでスバル360が1位2位を独占した。感激。この時二代目スカイラインGT(1484cc)が、あのポルシェを抜いて優勝した瞬間に居合わせた、とても印象深い。松坂の松坂牛のステーキの味も忘れられない。
 この頃、スバル1000の開発が佳境に有り、生産準備のためのグループに参加した。飛行機屋の車造りで、パワーユニットはポルシェと同じ水平対向エンジンで空冷でなく水冷。トランスミッションは直結で差動機(デフ)内蔵。軽量化のため、シリンダーブロックやシリンダーヘッドはアルミ合金。とても作りにくい代物。工作機械も工具も特殊、その上原価低減の要請は強い。(1000ccエンジンの重量は当時。他車130KG、スバルは70KGであった。)
 ボディも、北欧のサーブが開発初期のモデルと飛行機屋的。あれから50年、このユニークさが現在のスバルブランドとして花開いている。スバル1000として昭和40年10月発表。41年5月発売。日産サニー、遅れて1100ccのトヨタカローラとモータリゼーションの時代に入った。
 スバルも42年の1100、44年の1300G、46年の1400,1600のスバルレオーネとパワーアップが続いた。これらに強度面で対処するため、クランクシャフトの強度アップのため、隅Rのローリングマシンを西独のへイゲンシャイト社へ発注しその機械の検収検査のため昭和45年(1970年)1月中旬、単身欧州へ出張した。当時の海外旅行は関連の総合商社、機械貿易商社の現地支店などに依存し、連絡もテレックスが頼り、航空券はフリーで現地での対応に自由度が有り助けられた。ドルの手配は苦労しただろうと言われるが、記憶に無い。梅干と、小倉屋山本の昆布「えびすめ」は貴重品。
 当時は海外旅行は、家族と職場の面々が空港に見送りに集まり、また餞別も多数の方々から頂いた。即ち「お土産」が重い負担となった。当時は機体はダグラスDC6Bだったと思う。羽田からアラスカのアンカレッジで給油の休憩、あのラーメンの味が忘れられない。北極圏経由で欧州の都市へ20時間ほどのフライトだった。(北極通過記念シート)先ず西独のハンブルグの空港で日本人商社マンが迎えてくれた。一面凍結したアレスター湖畔のホテルに案内された。明朝の迎えを約束して、一人で頑張る気であった。ホテルを出て、湖畔を散策して、中央駅へ先ず行き、レストランで簡単に食事をと試みたが、不首尾であった。先ず感じたのは「石の家の欧州」と「木の家の日本」、この印象は今にも続いている。結局ホテルに戻って、空腹に耐え切れず勧められる侭のディナーとなった。翌朝、緯度が高いため暗いうちから人々は働きに動きだす。簡単な朝食の後、商社の支店に出向き、スケジュールの確認の後、ベンツでアウトバーンを走り、オペルの自動車組立工場を見学しドルトムントで一泊。翌日ケルン経由でオランダ国境に近い、エルカレンツという小さな町の工場を尋ねた。工場ではそれぞれの担当者と個別に話し合い、宿に戻って指示事項を纏めた。町の中心に教会があり、側の小さなホテルに投宿した。気分のよい宿の親父が作る朝食、いろいろなチーズが美味しかった。指示事項と。宿題を与えて、10日間ほど、西独、フランス、スイスの自動車工場、工作機械工場の見学を行った。
 ウォルフスブルグのVW組立工場を見学しハノーバーに一人で投宿、誕生日で土日となるので、JALの支店(日本大使館やJALは当時の情報収集の拠点)で話し合って、ベルリンで一泊して次の予定地ジュネーブへのフライトを確保した。ベルリンではブランデンブルグ門から東ベルリンの観光が出来た。この時リコーの社員二人と一緒になり、写真を撮りあった。ジュネーブでは、日本で柔道を覚えた青年が迎えにきてくれた。ヌシャッテル湖のほとりのホテルで本場のチーズフォンデユウをご馳走になった。本場の時計を買いたいと話したら、時計はサイコが一番と、自分の「SEIKO」を自慢した。「ROLEX」を希望したら、だめだと「IWC」を勧められ、それを求めた。
 お土産は、土、日曜日と夜間が休業で、買い物の時間が取れない、スイスでは日本でも名の知れたナイフをまとめ買いした。当時日本人のツアーがブランド品をまとめ買いするとの悪評も、納得出来た。フランスのパリに立ち寄りたく、ルノーの「セーヌ川の中之島」の古い機械工場を見学したが印象は薄い。ルーブル美術館やエッフェル塔の印象は強い。8年後にルノーのクレオン(パワーユニット)工場を見学したが、森の中の落ち着いた良い環境であった。ドイツのミュンへンに戻った。ドイツ科学博物館と「BMW」の組み立て工場の見学が目的。あの大ビヤホールに案内された。日本人はまだ珍しい頃で「さくら、さくら」で迎えてくれた。「先の戦争ではイタリアが腰抜けで、ドイツと日本だけなら勝っていた」等ドイツ人の優位論を聞かされた。ドイツ科学博物館は素晴らしい展示で、圧倒された。BMWの工場は思ったより小さく、VWと比較して量産工場ではない印象である。当時の自動車工場の見学では、ドイツが先を進んでいて、優位論で「何でも教えてあげるよ」と親切であった。
 目的のへイゲンシャイト社に戻り機械の検収を完了、当面必要な部品などを「日本に搬入後、順調に稼働が出来る事を願って独断で」購入手配して、アンカレッジ経由で、無事帰国出来た。輸入した工作機械は無事稼働し、生産に寄与出来た。
 ドイツ出張より帰国した年の4月に技師(幹部)に昇任した。二年ほど、増産、改善、原価低減、新製品の立上げ等にフル回転で働いた。その後三鷹工場としては初めて、スタッフがライン(現場)の幹部に転身した。先ず、エンジン機械加工の第一工作課次長を一年余、続いて変速機の第二工作課長と約四年間を生産現場で過ごした。昭和14年組等優秀な中島飛行機時代の職工さん達が50才位で頑張っていて、いろいろと面倒を見てくれた。夫々200人規模の組織であり、生産技術に戻っても、とても仕事がしやすかった。現在は工場部門は群馬県の大泉町に移ったが、三鷹でOB会(富鷹会)が毎年間かれ、平均年齢76才、現場のOBが多く現場時代が楽しく思い出されます。
 昭和44年夏、群馬県太田、大泉飛行場の返還が行われ、昭和50年ごろに、三鷹の工場の大泉(大泉工場)への移転が具体化し(MG計画)その調査、青写真の作成など、多忙になって来た。昭和53年4月には約一か月かけて、副所長と欧州から米国の工作機械工場、自動車工場の調査を行い。準備に入った。工場建設のハードと、技術者、作業者、スタッフ等の移転に伴う、住居や家庭、学校、等コミォニテイの問題、連絡や調整の難しさが山積みであった。世界一周の調査旅行の終わりは、ホノルル発5月23日、トウキヨウ着24日で開港予定の成田空港が使用出来るのか、はらはらであった。5月20日の開港直後の警戒の厳しい中、無事帰国出来た。この海外旅行では、お土産の心配は無かった。
 大泉工場は昭和57年2月竣工式、58年2月第一期工事完了し変速機工場として稼働。近い将来の発展、拡張計画が具体化して来た。
 昭和56年に開発部門がオランダのベンチャー企業バンドール社(VDT)と機械的無段変速機のスチールベルトの共同開発契約を結んだ。昭和58年に世界初の無段変速機の生産化を決定し、生産技術部門が生産準備の主体となった。先ずスチールベルトの安定生産が行われるか、生産工程、品質管理、外注部品の管理など、全般の確認に、私が主体で現地に張り付き、関連部署との連絡、調整、情報収集を行った。時差8時間、午前0時、日本午前8時、主に工場に電話を入れて睡眠した。
 VDT社はベルギーに近い、小都市、ティルブルクの郊外に有り、町の中心のホテルを定宿とし、毎日送迎された。また外注先の工場、ドイツやベルギーにも出向いた。ついでに水車の村や大堤防道路を案内された。休日には汽車でアムステルダム市内や一泊でパリへ遠出もした。二月にはこの町もカーニバルでホテルの周辺は大賑わいだった。社長のお宅にも招待され、迷った揚げ句、持参した「香水」を思い出して、手土産とした。小さな国でも、繁栄した時期があり、インフラも厚く、心の豊かさも本物と感じた。現在農業国として評価が高いのは喜ばしい。
 昭和59年1月に世界初の電磁式無段変速機として開発を発表し、生産準備が加速した。又大泉工場の工場等の建築も加速し独身寮も準備された。昭和60年7月に三鷹の生産技術部長から大泉工場長に転出。計画してきた事業を実現する立場を強く意識した。単身赴任ではあるが、賄い付きの家でラリーチームの社長と一階と二階に住み分けた。三鷹工場での会議と土日で帰宅の機会は多い。大泉町は太田市の南隣、熊谷市を北上し利根川を渡った町で工業団地やプレスの型の「オギワラ」「ミヤジ」世界一二の会社があった。赴任してすぐに夏祭り、「百貫みこし」があり、担ぎ手がいない。私達は早く町に溶け込まなくてはと、商工会の行事への積局的な参加と同様に、祭りに工場ごと参加した。
 工場は拡張工事が続き、三鷹工場より、単身、或いは家族で移転と人員も増加、ただ最初に移転してきた家族は、みな50坪の土地の家を構えていた。過日行われた三鷹のOB会、名簿では群馬県が住所の方が多くいました。
 その年11月3日、義父本多郁三が藍綬褒章を受賞し、お祝いも一段落し、体調不良で検診を受け、義妹の連れ合いが東京医大の医師でもあり、新宿淀橋の新築成った東京医大病院に治療のため入院した。61年2月の雪の日の翌日手術を行い、手術は成効した。 長男、義弟、私の三人の男子が交替で夜の看病を受け持った。糖尿病等があり回復が遅い。大泉町から新宿は熊谷、東松山、関越道と朝、晩ともに一時間半で、苦に成らなかった。一方仕事には影響はなかったと信じている。
 海老名の家は、病弱の義母鈴子と妻の多恵子と18才の緑子、11才の陽充で、妻が家と保育園の運営をしてい
た。丁度3月4月は保育園の卒園、人事異動、入園と一年で一番多忙の時、この時に義母が肺炎を患った。老人の
肺炎は熱が出ない、気付くのが遅く、海老名総合病院へ入院したが、昭和61年4月20日に亡くなった。(71年3け
月)今でも後悔の念が重い。義母が身体を壊してまで、愛し、育ててきた保育園。さがみ愛子園で葬儀を行い、お
送りが出来た。この事は、入院中の義父には伝える事が出来なかった。6月になって、一時の小康状態となり、
医師の許可で、自宅にひととき帰る事が出来た。自動車学校、保育園、市内を循環してきたとの事でした。この
時に義母のこと、葬儀の事などお話ししたとのこと。ショックを隠して、納得されて病院に戻られた。義父の入
 昭和61年9月7日、義母の死も影響有りと思いますが、本当に薬石効無く、息を引き取られた。(76才3け月)
 義父の葬儀も終わり、この事業をどうするか、自動車学校と保育園は一体として経営してきた。これが亡くなられた両親の意思であるので、一年近く社長不在の自動車学校の経営を私がとなった。私としては、大泉町に工場を造り、人も送り、その家族も移って、みんなが燃えている。大変苦しい選択ではあるが、人材は居るし、育ちもすると決心した。
 辞意を入社以来の上司の常務に伝え、ようやく昭和61年11月30日。辞令「願いにより職を解く。取締役社長 田島敏弘」
 退職後の昭和62年2月、あの無段変速機(ECVT)搭載車のスバルジャステイが発売された。

クラブ会報・IT委員会 2015年 6月 23日 火曜日 | | 例会